ペトリコール

すきなことだけ

ひとつひとつの痛みを飲み込んで

 

にのみやくんのお誕生日まであと2週間をきった。いつもなら段々と暑くなってきて、雨が降る日が増えて、あ〜もうすぐにのみやくんの誕生日かあなんてふと思い出すんだけど、今年は本人が随分前に「誕生日が近くなってきたぜ!!」なんて言うから笑ってしまった。確かにもうすぐだね。

 

 今年の時の流れはゆっくりだな、とかあればいいんだけど、別に何も変わらないで時間だけは過ぎていく。あ〜今日も何もできなかったなって日があって、勝手に落ち込んだりするけど、それでもただただ平等に時間が過ぎていく。そう思ったら、一人じゃない気がして、何の根拠もないのに、そんな変わらない日常に救われながらも、それでもやっぱりどこか寂しい。たった一度しかない2020年を、大事な2020年を、と思うと、どうしても悔しかった。人生にたらればは無いから、もし〇〇だったら、なんて考えは無駄で、人生は回るし世界は待ってくれないし、私がどうにか出来ることでもない。それは当たり前の話で、だから仕方ないんだよ。仕方ない。仕方ないよね。いや、仕方ないのか?仕方ないってなんだろう、仕方ないことなんて存在しなくて、きっと自分が楽になりたいがための呪いで、仕方ない仕方ないって言いながら平然を装おうとしているんじゃないのだろうか。仕方ないことなんて本当は存在しないんじゃないか。2020年はこうなりました、もっと楽しいことを予想していたのに、仕方ないね、こんなこと誰も予想していなかったし。そうやって自分の中の諦めをいい子いい子しながらやり過ごしていった日々って本当に後から振り返った時に「仕方ない」で割り切れるものなんだろうか。別にこれに答えはいらないけど、シンプルにそうは思えなかった。 

 

 

私は空を見るのが凄く好きだ。辛い時、悲しい時、いつも空を見て深呼吸している。世界がどうなっていても、私がどうなっても、変わらずに流れていく空がきれいで、美しくて、世界はこんなにも広いのだということが救いだった。私が変わっても空は変わらないことが嬉しかった。どれだけ悩んだことがあっても空に比べると小さくて、なんだか大丈夫な気がした。どうしようも無い気持ちを言葉にできない時、全て吸い込んで行ってくれるような気がして救われた。嬉しいことがあったときは、もっと良いことが起きるような気がしたし、心を晴らしてくれるような気がした。そんな全てがとても心地よかった。上手くいかなかった中学の部活の帰り道の夕焼け空、受験直前で大好きなバンドの解散ライブに行けなかった日に見た藍色の空、コンサートの帰り道に見た無数の星空。全てその時々の言葉に表し難い気持ちとともに新鮮に思い出せる。特に自粛期間中は、空をゆっくり眺めるのが唯一の楽しみで、毎朝早起きをしては日の出を待ちながら読書をしていた。時間の流れとともに空の様子は変わっていくのに、常に綺麗で。どれだけ寂しくても、悲しくても、辛くても、側にいてくれるような気がした。

 

ぼーっと空を見る。どんどんと空が流れていく。時間は止まらない。何事もなかったような顔で、進んでいく。綺麗で、大きくて、穏やかで。でも同時に、こんなにも空は綺麗なのに、私は何もできないことが、綺麗でいられないことが、やるせなくなった。私だって何かできたことがあるかもしれないのに、見られた景色があったかも知れないのに、そう思うと遣る瀬なかった。それ以上に、彼らがやることができたはずのことができなくなっていったことが寂しくて、虚しくて、悔しくて。空が綺麗であることに救われていたはずなのに、そんな言語化できない悔しさをただひたすらに抱き続けた。

 

ただ、こんな状況になっても尚、彼らは、彼らだけは、その時間を私たちのために、頑張っている人のためにと発信し続ける事をやめなかった。真っ直ぐであたたかくて優しい。こうありたいなと思わされるような人柄。そして実行力。そんなの今まで見てきて痛いほど知っていて、それなのに、この数ヶ月はそんな彼らの力と誠実さに何度も胸を打たれて仕方がなかった。彼らは感情を言葉に落として、いつだって誠実に想いを教えてくている。でもVoyage#9を通して、そんな彼らがどれだけその行動や言葉に行き着くまでに想いを巡らせていたのか、その背景を知った。もどかしかった。そして、にのみやくんが現状について聞かれた時、あれだけ感情の言語化に長けている彼が、言葉に詰まっていた。そんな姿を見ると、やっぱり「仕方ない」なんて言えなかった。そして同時に、儚くて消えそうな表情が凄く好きで、尚更私はどうしようもなかった。

 

 

とても好きな作家さんが綴った作品のあとがきに、こんな言葉があった。

私達は、言葉の為に、生きているわけではない。意味の為に生きているわけではなくて、どれも私達の為に存在しているものなんだ。*1

言葉はそもそも私達のために、その人のためだけに存在しているものである。だから、言葉が感情に当てはまらなくて良い。その人の、その人だけの言葉があれば。

私は「綺麗だけどなあ、空」がその答えのような気がした。悔しいとか、悲しいとか、楽しいとか、そんな勝手にみんなが持っている感情の型に当てはめなくていいもの。その人のためだけに存在している言葉。

 

 

この言葉を聞いた時、綺麗な空を見て何とも言い難い気持ちを抱いても良いのだと思った。また、彼だけの言葉を感じることができて嬉しかった。誰のものでもない、彼だけの言葉。私は受け取ることが出来たとしても、想いを抱くことができたとしても、永遠に彼のためだけに存在する言葉。彼だけの言葉なのに、私は私の感性で触れていいのだということが、触れてしまえるのだということが、嬉しかった。綺麗な綺麗な空を見て悔しいような、そんな気持ちを抱いてもいいのだと思った。鬱々としても、遣る瀬なくても、彼の目には美しいものが美しく映っていることが分かった。どんな時であったとしても、感性が光っていて眩しい。そこにはやっぱりどこか寂しい瞬間があった。

 

 

こんな世界でも、こんな状況でも、彼の感性を浴びて、彼の表情を見て、彼の声を聞いて、好きだなあという想いを募らせることができている。この前ふとインスタを見ていたら広告でナノックスを持って笑うにのみやくんが現れて、思わず笑みが零れた。なんとなく気分が良くなくて、もう今日は家を出られないなあと思っていたら、テレビからにのみやくんの声が聞こえて、「もうちょっと頑張ってみようかな」と思った。ゼミの発表で思うようにいかなくて、虚無感に襲われていた時に目にしたストーリーのトマトは、丸々とした愛らしさで、可愛かった。全然上手くいかなかった面接の帰り道、じわじわと込み上げてくる涙を堪えながらコンビニに入ったら三ツ矢サイダーと目があって、たったそれだけなのに、ちゃんと私の好きがそこにあるような気がして、見失いそうになっていた私がそこにいるような気がして、思わず涙が零れた。

 火曜日になればストーリーがあがって、木曜日になればゲームを楽しむところが観れる。土曜日は美味しいものを食べながら微笑む姿に思わず笑って、日曜日は緩やかなリズムの中で紡がれる哲学的な言葉に酔いしれる。今は同時に、生徒として先生に会う機会をくれている。決して近くはないのに、近くにいてくれる。ふと更新された紙芝居を見て笑うことができる。日常。変わらないものがそこにある。そして何より今は、彼らにも悔しさが存在していることを共有できている。悔しくてももどかしくても、私は彼だけの言葉を、表情を、知ってしまえる、触れてしまえる。それが当たり前ではないことだと忘れていた。こんなにも救われているのね。知っていたはずなのに、もう慣れたはずなのに、何だか全てが奇跡みたいで愛おしくてたまらなくなった。だからこそ、もっともっと手にできていたかも知れないものがあるということが、より一層悔しかった。

 

 

詰まる所私は断片的な彼らのことしか知らないで、勝手に好きなものを噛み締めて祈るように大切に好きを抱えているだけなのだが、やっぱり仕方なくなんてない。仕方ないなんて呪いを解いて、悔しいとか、悲しいとか、寂しいとか、そんな気持ちも全部全部抱えたい。仕方なくなんてない。空が綺麗なのに上手く動けない、そんな事を考えても大丈夫。ちゃんと悔しいと思っても良いのだという事を、仕方なくなんてないのだという事を、なかったことにしなくてもいい。これだけのものをもらいながら、やっぱり悔しいだなんて、お前は我儘だなんて怒られちゃうかもしれないけれど。結局は、そんな気持ちと共存する今この瞬間、この一瞬を後悔しないように目に焼き付けていくしかきっとないはずだ。

手に入ったはずのものが手に入らないことへの惨めさはなくて、何よりも今まで届けてくれたものはどれも大切で仕方がないし、私の目の前にあるものはきらきらしていて眩しい。日常に溢れるきらきら。これでもかと溢れている幸せと、どんな時にも光る彼の感性。でもだからこそ、まだ終わっていないということが、手に入れられるのかも知れない時間があるということが、空が綺麗であるということが、より一層、私の悔しさを膨らませている。

 

 

*1:最果タヒ「死んでしまう系のぼくらに」