ペトリコール

すきなことだけ

きらきらした星だけを広げて

 

悲しみや苦しみ、そんなものは何もかも手放して、忘れてしまって構わない。きらきらした星だけを広げ、星空を眺めるように幸福に浸っていてほしい。その星々のひとつに、わたしとの記憶もあったら嬉しいなと思う。

 

最近読んだ本の中にあった言葉。この言葉を読んだ時、真っ先に好きなアイドルのことを思った。

 

 

にのみやくんを初めて目の前で見た時、光ってると思った。そんなの、在り来りな言葉だけれど、それでも、真っ直ぐに光っていると思った。10代の頃。友達の家でドラマを見ていたら、キラキラと眩しくてかっこいい男の人が出ていた。とにかく眩しくて仕方なかったのを覚えている。にのみやくんはそんな人だった。出会ってから、ずっと眩しい。ステージに立つ人は光るのだと、にのみやくんを通して知った。

 

 

学校は、私にとって特別楽しい場所ではなかった。毎日の繰り返し。それでも、嵐を好きになって出来た友人が家に呼んでくれて、一緒にライブDVDを見たことがわたしにとっての宝物の記憶として残っている。カッコイイね、楽しいねって2人で笑いあったこと。小さな部屋で、一緒にCDを流して語り合ったこと。芸能人が好きだなんて、そんな自分の好みを知られることが怖くて、口にするのが恥ずかしくて出来なかったけれど、家に帰って「わたし、嵐が好きなの」と母に打ち明けたことを忘れない。誕生日プレゼントに、とDVDを買ってもらったこと。擦り切れるくらい見て、泣いて、笑って、抱きしめた日のこと。好きは人生を彩ると、にのみやくんを通して知った。

 

 

仕事ってなんでこんなにしんどいんだろうね。そうやって声に出して呟いた日のことを覚えている。入社して直ぐに、1年後の自分に手紙を書くという機会が訪れた。正直、仕事はあんまり上手くいかなかった。病気にもなったし、吐き気が襲ってきてトイレに駆け込んだこともあった。そんなこんなで2年目を迎え、手紙を見返した時に飛び込んできたのは「ストレスを溜めないように。お金を貯めることを頑張ってください。」の文字。あまりにも好きなアイドルが人生にとって大きい存在であることを表していて、思わず笑って、泣いたこと。ラジオで「自分しかお疲れ様って言ってあげられない」と語っていたのを聞いて、わたしの心の支えになったこと。もう何もかもダメだとしても、自分だけは自分の味方でいていいんだと、にのみやくんを通して知った。

 

 

最近、ある映画を見に行った時、アイドルがペンライトで光る会場を見て「みんなが1個1個の星みたい」と言っていた。初めてドームでのコンサートに足を運んだ時、会場の隅から隅まで光るペンライトを見て、好きが光っていると思ったのを覚えている。私たちは星みたいに光ることが出来るらしい。けれど私はアイドルのことも星みたいだと思っている。「一番星の生まれ変わり」というフレーズがアイドルのファンの中で飛び交うようになったように、みんなが自分の好きなアイドルを一番星として見ている。わたしも例外ではない。星みたいなアイドルと、星のように光ることが出来る私たち。それが繋がって、好きという巨大なエネルギーになって輝くのがコンサートという場だと、にのみやくんを通して知った。

 

 

「もう、って思うか、まだ、って思うかで人生は180度変わる」という言葉がテレビから聞こえてきて、ああにのみやくんは「まだ」を繰り返してここまで来たんだろうなあとぼんやりと思った。不幸を数えるような生き方をしてきた私を支える幸福にはにのみやくんがいて、道が沢山ある時は立ち止まってにのみやくんならどうするんだろうを考えて、そうやって生きてきたこと。心の中心にいる人。幸せを願える人がいるってうれしいことだなあと思う。わたしたちの大好きも、かわいいも、かっこいいも、全部燃料にして燃やして生き続けていて欲しい。にのみやくんへの気持ち、緩やかに変化してきたけれど、それでも変わらないものは好きの気持ちで、ずっと幸せでいて欲しくて、健康でいて欲しい。好きの気持ちが続くと、好きは大きなことというより自然なことになると、にのみやくんを通して知った。

 

 

好きになって、もう何度目かの誕生日を迎えている。40歳ってどんな感じなんだろう。私にとってはまだまだ先で、とっても大人で、手が届かない。かわいい、とか愛おしい、といった気持ちをもう呟くのもあまり良くないかもしれないと最近よく思う。それくらい大人の歳だ。それでもにのみやくんを通して知ったのは、ずっとかわいい、愛おしい、ずっと眩しいという事だ。アイドルって凄い。ダンスが上手いとか、歌が美しいとか、それだけじゃなくて、光をくれて、大丈夫をくれて、思い出をくれる存在。人生を彩るということ。毎日が光ること。

 

 

「先のことは分からないけれど、またこれからの1年もにのみやくんのことが大好きで、きっと来年40歳のお祝いをここでしているのだろう。」と1年前のブログに書いた。今年もお祝いできて嬉しいね、わたし。新しい星に立って、もう随分経つけれど、好きの気持ちも元気でいてくれますようにという祈る気持ちも絶えることなく続いている。また1年この想いが続くんだろうなって思うと、心がきらきらするから、やっぱり好きは光るし人生を彩るんだなと思う。そしてこれからもにのみやくんを通して沢山のことを知っていきたい。沢山の感情を手にしていきたい。世の中は、悲しいことも苦しいことも沢山ある。けれど、キラキラした星を広げて生きていて欲しい。そして、キラキラと輝いていて欲しい。いつかまたステージから星のように見えるよう、光を照らすから。そこで思い出が出来たら嬉しいなと夢見て。そして大好きの想いを込めて。

 

40歳のお誕生日おめでとうございます!

来年もまた健康で、この日を迎えられますように。

 

 

私の神様

神様は、いるんだろうか。体の外でびかびかと太陽のように光る、折れかけた樹木の添え木となるもの。

 

 

この前読んでいた本の中に何気なく出てきた一節。

神様ってなんだろう。そんなことを、ぼんやりと考えていた。

 

話は変わるけれど、私はすごく弱い。弱くて、すぐ潰れてしまう。だから、この間「仕事を辞めます」と上司に伝えた時、足がすごく震えた。伝えるぞって決めた前日の夜は悪夢を見たし、当日の朝は何度も迫り上がってくる吐き気を抑えるのに必死だった。神様に祈った。どうかうまく伝えられますように。どうか、大丈夫になりますように。無事に伝えられたその日、会社を出てひんやりとした空気を吸った瞬間、フッと足が軽くなった。今まで気がつかなかった星空が目に飛び込んできて、ああ神様が祝福してくれたんだ、と思った。

 

 

社会人になってから、にのみやくんの言葉をたくさん武装して、大丈夫を心の中で唱えてきた。退職を伝える日も、同じように唱えた。大丈夫。大したことない。身勝手に、私はにのみやくんを神様にしてしまっていたのだと思う。神様に祈るように、にのみやくんの言葉を心の中で何度も唱えては、勝手に救われた。数え切れないほど、光をもらっていたのだ。

 

 

 

Record of Memoriesが公開されて、挨拶で「僕は幸せ者です」と語ったにのみやくんのことを思った。あの日、その言葉を聞いた瞬間あらゆる糸が切れたかのように涙が溢れて止まらなくなったのを覚えている。私たちファンが一方的な感情を彼に向けようと、「僕は幸せ者」という言葉で返してくれた。神様だなあと思った。私の信じる神様がそこにいる。そう思いながら祈るように泣いてしまったこの日のことを忘れないのだろう。

 

星を手渡されたような光の梯子が差し込んでくるようなアイドルではないかもしれない。でも、大切なひとを想って、愛して、自分の大切なものを守るためにステージに恋して、ステージの上で命を削る。そんなアイドルのことを愛しているし、私にとっては、そんなアイドルが、太陽のように光っている、折れかけた樹木の添え木となるような、神様だと思う。

 

 

神様とはなんだろう。知っているわけでも見たわけでもないのに、にのみやくんを形容するときに「神様」が出てくるのはなんでだろうね。それでも私の神様だって思わずにいられなかったのは、何度も何度も私を救ってくれたからなのだろう。私の中ににのみやくんがいるから大丈夫だ、と何度も思わせてくれた。いつか去る時がくるかもしれない、それは私が先かもしれないし、にのみやくんが先なのかもしれない。でもずっと心の中に残り続ける。唯一無二。そういう日常の救いをくれるのが、私にとっての神様みたいです。

 

超人でも、無敵のヒーローでも、もちろん永遠の神様でもないことはよく知っている。分かっている。それでも、彼しかいない、と思えることが私の幸福で、私の人生なのだ。

 

 

今年はドラマに映画にアルバムに24時間に、たくさん救われて、たくさんの夢を見た。

来年もきっと大丈夫、そう思わせてくれるのは、にのみやくんが光っていてくれて、心を支えてくれて、そんな生き方をしてくれているからだ。

 

私の信じる神様。歩き続ければ、何度だって会える。だから明日からもきっと、大丈夫。

 

アイドルに祈る

最近は時間ができたから家のレコーダーの整理をしている。そんな編集の最中、ふと卒業シーズンの音楽番組から「旅立ちの日に」が流れた。

 

 

2018年3月。新宿。

友人に「推しの大学の卒業式を一緒に見に行って欲しい」と告げられ、初めて地下アイドルの現場に行った。その友人は中学からの同級生で、とにかく好きなものには真っ直ぐな人だった。私はそんな彼女を見ながら、こんな風に好きなものに正直でいられたらいいな、といつも思っていた。そんな憧れの彼女が好きな、青色のアイドル。目がきゅるんとしていて可愛い。そんなことしか知らなかったけれど、きっと彼女が好きな人なら素敵なんだろうなと思った。実際、その日見た景色はとても美しかった。

その日は彼女の推しの、大学の卒業式だった。遠征でのイベントと被って彼が行くことができなかった卒業式をみんなでやろう!というイベント。私は彼のことを何も知らなかったけれど、隣で喜びに満ちた表情で立っていた彼女を見ると、なんだか私も体の奥底がじんわりあたたかくなるような心地がした。

 

開演してからはあっという間に青色のペンライトの海に飲み込まれた。皆が1人に愛を向けている。巨大なエネルギー。ステージに目を向けると、アイドルはきらきらと笑いながら、光を集めて歌っている。何も知らないアイドル。名前もうろ覚え。一人一人がどんな人なのか何も知らない。けれど、眩しくて楽しそうで、私もこんな風に笑いたいななんて思ってしまうほど、格好良かった。

始まった卒業式はメンバーから彼に卒業証書を送るというもので、メンバーひとりひとりが言葉と歌を送った。そこで皆で歌った「旅立ちの日に」と、フロアの啜り泣く声がずっと忘れられないでいる。あたたかく優しい空気の流れる、美しい、忘れられない卒業式だった。

 

 

 

 

それから1年後、彼女の推しは体調不良を理由に、ステージから姿を消した。

 

 

 

 

もし「アイドルに望むものはなんですか」と聞かれたら、きっとあの時の私は「ステージに立ち続けてくれること」と答えていただろう。実際に今もアイドルを好きになる度に、どうかステージに立ち続けていて欲しいなあと思う。それは観客だから、ファンだから当たり前のことで、何もおかしいことはないはずだ。でも、あの時の卒業式と、ひっそりといなくなったアイドルを見て「元気でいてくれたらいいな」と呟いた友人を見てから、アイドルに祈る何よりのことは「この世界にいてくれること」なんだと思った。

 

 


たった一度、あの日目の前で見た彼女のアイドル。今どこで生きているのかわからない彼女のアイドル。事故にあったのかもしれない、アイドルが嫌になったのかもしれない、新たな夢を見つけたのかもしれない、もうあの場にいた人たちに会いたくなくなったのかもしれない。それでも彼女は「元気でいてくれたらそれでいい」と言っていて、それが愛なのだと思った。

 

 

好きなアイドルがステージから降りる。歌もダンスも日常からなくなる。正直、経験してからこんなに寂しいことは無いと思った。死ぬことと同義。それでもずっと「元気でいてくれたらいい」を想っている。ずっと祈っている。彼女が祈った愛と同じ温度で、わたしもにのみやくんに祈っているのだ。

そんなにのみやくんが素敵なドラマを届けてくれた。近況を動画で教えてくれた。映画という楽しみをくれた。そして、カバーアルバムを出してくれた。ああ、こんなに幸せでいていいの。「元気でいてくれたらいい」と願っていたわたしにとびきりの大きな大きなプレゼントをくれるの。貰っていいの。彼のそんな“彼自身の好き”と、“わたしたちのほしいもの”を繋げてくれる優しさと、聡明さと、とびきりのエンターテイナーである姿が大好きで仕方が無いのだと思った。

 

 

幸せでいて欲しいなんて烏滸がましくて押し付けがましいけれど、やっぱり彼の思う形の幸せでいて欲しいのだ。その幸せの中に、ステージの上に立つことがほんのすこしでもあればいいなと願っている。アイドルに対してファンでいられる時間はアイドルがアイドルでいてくれる限り有限だからこそ、私はにのみやくんが走り続ける限りファンでいたいな、ずっと好きでいたいな、と思う。したいことをやる、そんなところを全部好きでいたいと思う。そして我儘にも、こんな日々が続けばいいなとも思っている。

 

 

 

 

この間読んだ本に、亡くなった子供を自分の中に生かし続けている母の話があった。産まれてすぐに亡くなってしまった我が子を、「私の中にいるから大丈夫」と思うのだ。「私の中にいるから大丈夫」。そうして“大切”を心の中で溶かして、悲しみをお守りにして、心の穴を満たす。そして、我が子を失った、今までとは全く異なる“新しい星”を生きる。なんて寂しくて優しくて美しいのだろうと思った。

 

 

 

 

2021年の1月からわたしは新しい星を生きている。現状、ドラマ、YouTube、映画、バラエティ、そしてカバーアルバム。全部全部楽しくてたまらない、私にとっての幸せだ。その事実は変わらない。でもほんの少し、ほんの少しだけ、舞台の上に再生産する日を待ち望んだりもする。欲深い。

けれど。けれど、そんな傲慢な気持ちも霞むくらいに、「元気でいてほしい」と強く強く願っている。今までの眩しさはずっと胸の中にある。再来を望みたくなるくらいに胸の中で眩しく光っている。わたしはその大切を、心の中で溶かして、「私の中にいるから大丈夫」と思い続けたい。わたしの中に、にのみやくんがいるから大丈夫。あの日のステージの上の笑顔も、歌声も、星が飛び散るようなダンスも、全部私の中にあるから大丈夫。汚れた言葉が入る隙間も無いくらいに、美しいものしか存在しないステージの上で、光続ける彼の姿が、私の中にあるから大丈夫。そして、世界は彼のことが好きだよと心の中で唱える。あれだけの光を纏って世界を輝かせた彼のことを、世界はきっと愛しているに違いない。

そしてこれから先も、様々な角度で楽しませてくれる、表に立って笑ってくれる、そんな彼のことを世界はきっと愛していると思う。本当に。いつも。

 

 

なんだか全然書いていてまとまりなんてなくなってしまったけど、いつも祈る気持ちは変わらないのだ。大丈夫。あなたの幸せを望んでいる人がこんなにもいる。ずっとずっと笑っていて欲しい。そして何より、元気でいて欲しい。もう本当に望むのはそれだけで、今日も祈るような気持ちを抱えている。

 

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にのみやくん、39歳のお誕生日おめでとうございます。

この1年も楽しかったなあ。先のことは分からないけれど、またこれからの1年もにのみやくんのことが大好きで、きっと来年40歳のお祝いをここでしているのだろう。

 

 

にのみやくん、ずっと元気でいてくれたらいいな、笑っていてくれたらいいなって祈りながら、わたしはまたこれからの1年も“大切”を心の中で溶かしていくのだ。この、新しい星に立って。

 

38

過去を振り返ることが多かった一年だった。

 

就職活動中、ずっと自分とは何かを考え続けていたと思う。自分のどんなところを知ろうとしているのか、それが中々掴めなくて苦しかった。

 ある日面接の練習をしていた時に、担当の人に「自分のことが分かりません」と言った。「自分のことが分かりません、今までどうやって生きてきたのか、これからどうやって生きていきたいのか、自分がなりたいのはどんな人なのか、わからなくなりました。」そんなことを言った。頑張れ私!頑張れ!と沢山呟いて、おまじないのように、自分を殺すように走ったが、結果は、あまり思うようについてこなかった。頑張れってなんなんだろう、頑張れてる?頑張った?って自問自答を繰り返していた。だから、なんとなく祈るような気持ちで呟いたように記憶している。

 

そんな私を見て、「そうだなあ…じゃあ質問を変えよう!あなたは、嵐の中で誰が好き?」と聞いてきた。あまりにも唐突だったので、きっと私は驚いた顔をしていたと思うけれど、「えっと…にのみやくん…です。」と答えた。「ニノね、なんで?なんで好きだと思ったの?どんなところが好き?」なんで好き?なんで…?いや、もう何が好きとかどこが好きとか、そんなこと考えるところを超えてしまって、全部、全部好きなんだよなあ…この世界で、いや人類で一番二宮和也さんが素敵だと思って生きてきたからな…と思いながら、「限界を作らないで、マルチになんでもできる…しようとするところです」と答えた。いつも最初から物事を決めつけたりしない、その姿がとても好きだと思う。目の前のことに真摯に向き合う。仕事を楽しいと口にする。そんなところが憧れで、好きだといつも思っていた。

それに彼女は柔らかく笑ってこう返した。「そう、ニノのことがとても好きなのね。あなたはそんな人になりたいと思っているんじゃないかな。そんなふうに生きていきたい、そんな人が信頼できる、と思っているんじゃない?」

 

 

 

 

 

この頃読んでいた本に印象的な言葉があった。

 

「わたしはね、信頼できる仕事をする人がすきなの」「わたしが信頼するのは、すきとか恋愛とか愛とか──そういうところから出発するようなものじゃなくて、まずその人の仕事にたいする姿勢であるってことなの」「そこにはね、その人の全部があらわれるんだって。」 

 

 

 

「信頼した分、わたしも相手に、何かをちゃんと手渡しているって、そんなふうに感じるの。」「自分の人生において仕事というものをどんなふうにとらえていて、それにたいしてどれだけ敬意を払って、そして努力しているか。あるいは、したか。わたしが信頼するのは、そんなふうに自分の仕事とむきあっている人なのよ。」「そして、そういう人に向けられたすきという自分の気持ちを、わたしは信頼しているところがあるの。だから、すきとか愛とか──まあ愛というもののことについてはあまり考えたことがないけれど、最終的に残るのはそんなふうにいつか変質したり単純に消滅したりしてしまうようなものじゃなくて、やはり信頼なのよ」*1

 

 

 

2020年6月、サプライズで誕生日をお祝いされることに気づかずに必死に自分の仕事を確認しているにのみやくんがいて、思わず泣けてしまった。7月、突然始まったスイーツ部とにのちゃんを探せ!に振り回される日々。8月、「この人たちがいないと…」と語るにのみやくんを見て、この表情をずっと見ていたくて、この声を聞いていたくて、私はここにいるんだと強く思った。9月、「やりたかったこと全部できなくなっちゃった」っていう声を忘れることができなかった。10月、アラフェスを間近で見たいファンもいるんじゃないかっていう質問に「それは我々だけじゃなくて、コンサートを応援している人はみんな思うことですもんね」と答えるところを見て、こっそり泣いた。11月、「嵐が世界一のショーです」と語るその顔がどうしようもなく宝物だった。12月、歌って踊って笑って、ステージの上で光る彼が、どんなものにも代えられない、私の人生の真ん中だった。

2021年1月、変わらない姿でテレビに立つにのみやくんを見て、心がすっと軽くなった。2月、ミッキーの耳をつけるところを見てやっぱり大好きなアイドルだ〜〜って心が躍った。3月、アカデミー賞のレッドカーペットを歩く姿を見て、胸がいっぱいになった。4月、YouTube始動!?!?ってザワザワして、あ〜同じ時間を生きているんだなあって嬉しくなった。5月、本格的にYouTubeが始まって、好きを形にできるその姿にまた信頼を強くした。

 

 

 

誠実に仕事に向き合って、好きなものには丁寧に愛を捧げる。そしてその行為を素晴らしいものだと体現してくれる。今死んでもお釣りが出る人生、これ以上ない人生、そうやってアイドルとしての人生への肯定の言葉をくれる。周りの人への感謝を忘れない姿。「仕事を楽しいと思っちゃいけないのかもしれないけど(笑)」って笑う。「大丈夫 ここにいる」と歌う。仕事に敬意を払い、努力し、向き合うそれら全てが、わたしが彼みたいに生きたいと思う憧れの所以であり、彼に抱く信頼なのだと思った。

 

 

小学生の私も、中学生の私も、高校生の私も、大学生の私もにのみやくんに救われてきたのに、この先どうなるんだろうねって不安になったりもしたけど、やっぱりにのみやくんはちゃんと変わらない温度で“そこ”にいてくれて、嬉しいも楽しいも共有してくれて、おいていかない速度で、歩いてくれている。仕事に対する向き合い方から、私はこの人を好きでいてまちがいないんだ、と思わせてくれる。こんなふうになりたいな、と思わせてくれる。だから現在進行形で好きを抱き続けていられるんだろうな、ってまた一年前と同じ気持ちを抱いているけれど、その変わらなさが好きの──信頼の理由なんだろうなと思う。そしてまた今年もそう思えて嬉しい。

 

 

 

37歳のにのみやくん、両手で抱えきれないほどの特別をくれてありがとう。

そして、にのみやくん、38歳のお誕生日おめでとうございます。

 

にのみやくんが歩く道が、にのみやくんが選ぶ道が私の見たい“アイドル二宮和也”だから、これからもその一瞬一瞬の目撃者になり続けたい。アイドルにのみやくんが完成する…ことはもしかしたらないのかもしれないけれど、変わらず、その道を見続けられたらいいなと思う。

 

 

私の方は相変わらず仕事は全然だめで、悔しくて、どうしようもない毎日だけど、YouTubeで大切な後輩におめでとうを届けるために奮闘するにのみやくんを見ては、またにのみやくんが変わらない温度で画面の向こうで笑ってる〜(泣)ってそれだけで救われて、こうやって笑えるならまだまだ人生大丈夫かもしれないななんてぼんやり思った。そんな信頼を見つめて守ることしかできないけれど、それも全部奇跡だ。画面を見つめながら、最高、大好き、特別な光だって思いながら見つめる、その毎日が奇跡みたいに眩しい。この一年も、彼に抱く信頼を大事にできますように。彼の仕事への信頼にまっすぐに向き合って受け取ることができますように。そして仕事に敬意を払って、誠実に向き合う彼に向けられたすきという自分の気持ちを、守り続けていけますように。

 

「自分のことが分かりません」と言ったあの時の私の中にはちゃんと大好きな人への大切な守りたい宝物のような“信頼”があったよ。消えることの無い信頼。いろんなものがなくなってもちゃんとそこに残る信頼。それが身体の真ん中にちゃんとある。だからわたしは歩いて行けるのだ。変わらず、目の前に輝き続ける月みたいに光るにのみやくんを見つめて、顔を上げて、目印にして、歩いていきたい。

 

 

まだまだ新しいにのみやくんに出会える一年、いっぱい楽しもうね。

そしてまた来年も、お祝いできますように。

 

*1:「すべて真夜中の恋人たち」より

「好き」で始まって「好き」で終わる

ついこの前、二宮くんの誕生日の事を考えながら、自分宛にトートバッグを買った。それを見たらこの先36歳の時のにのみやくんを思い出せる気がして、なんとなく買った。美しいマーガレットの造花が入った、素敵な鞄。以前からそのブランドのものが憧れで、可愛いなあ、素敵だなあと思いながら眺めていたのだが、今回その新作が発表された瞬間、思わずこれだ!と思ったのだ。

 

マーガレットといえば、以前にのみやくんが徹子の部屋に出演した際、黒柳徹子さんがマーガレットが全体にあしらわれたお洋服を着ていたのを覚えている。徹子さんはゲストの方が着てくる服を想像して衣装を選ばれていると言う事を知ってから、マーガレットを見るたびにのみやくんの事を思い出した。マーガレットは「誠実」のシンボルの花らしい。そう知ってからよりこの花が好きになった。誠実なにのみやくんを思い出す花。素敵だ。にのみやくんにぴったり。

 

この鞄に惹かれたのはそれだけじゃない。ハッとするくらい素敵な言葉が添えられていたのだ。

「花びらを一枚一枚ちぎり、「好き」「嫌い」と恋の行方を占うお花でお馴染みのマーガレット。実はこの花占いには素敵な秘密が隠されていた。マーガレットの花びらの枚数は奇数なので「好き」で始まれば「好き」で終わるのだ。」

 

「世界がどんな風に変わっても、時代がどんな風に進んでも、私たちは飽きもせず同じものを愛して、同じことを続けていたい。」

 

この言葉を見たときに、出会ってしまったと思ったのだ。「好き」で始まって「好き」で終わる。そして、どんなに世界が動いても、愛せるものを変わらずに愛していたい。そんな想いが詰まったこの鞄は、自分自身が肯定したかった気持ちそのもので、愛おしくて眩しくて特別なものに見えた。

 

 

以前にのみやくんは変わらない、と呟いたことがある。でも実際は変わらない人なんていないし、変わらないことを示す基準なんてない。私が勝手に持っている「彼は変わらない」という感情に正当性を持たせようとしているだけなのかもしれない。変わらないことも変わることもどちらも尊いくらいに美しいことなのに、私は私の中で勝手に作り上げたアイドルを守るために「変わらない」と思いたかったのかもしれない。そう思うと自分が惨めで仕方がなかった。

 

そうなんだけど。

でも彼を見ていると変わらないなと思ってしまうのだ。変わらない。 その“変わらない”は、一定の温度でいてくれること、そして根底の部分がいつもぶれなかったことなのだと思う。飾り気のないナチュラルさ、長年一貫したアイドル論、常にステージの上で完璧でいようとする姿勢、感性がキラリと光る言葉、愛を向けることに不器用ながらも誠実で、同時に愛を向けられることにはどこか慣れないでいるところ。そんなところなのだと思う。

 

ちゃんとステージの上には変わらない、アイドル二宮和也という本物があるんだよ、進み続けてくれるんだよ、悔しいも嬉しいも共有してくれるんだよ、だからこそ私は好きだという感情を現在進行形で抱き続けていられるんだろうなあなんて思う。

ステージに立つと光が集まって輝いていく。目を細めて柔らかく笑う。その周りを光が飛び散る。美しくてもはや愛としか形容できない。愛だよ。そして世界は素晴らしいことばかりじゃないけど、それでもなんだか大丈夫だよねって思ってしまうくらいのあたたかさがある。そんな特別で唯一無二でそして変わらない姿が、涙が出るほど綺麗で、胸を締め付ける。変わらない。変わらないもの。ステージの上でいつだって光るもの。

過去を振り返ってはあの時は楽しかったな、よかったな、と思ってしまうのは人間だから仕方がないことだけど、それでもその時に戻りたいと思わないのは、彼が一定の温度でいてくれること、軸がぶれないでいつも誠実でいてくれるところ、そんな“変わらない”ものがあったからなのではないだろうか。36歳最後を見納めた、6/16のHappy Liveを観てそんなことを思った。

 

やっぱり私はそんな彼が一等好きで、泣きたくなる。泣きたくなるほど好きなのだ。

どんなに駄目な日があっても、苦しい日があっても、にのみやくんは変わらずそこにいてくれる。私がどれだけ失敗したとしても、世界が変わったとしても、変わらない温度でそこにいてくれる。そのことに何度救われてきたのだろう。

嬉しいとか尊敬とか悔しいとかそういう何重にも積み重ねてきた感情の重さがあって、勝手に自分の気持ちを乗せて受け取ったりアイドルを消費していることに対して罪悪感を覚えたり、そういう一筋縄ではいかない感情が沢山あるけど。結局全部大切で、全部の感情でにのみやくんが好きだという気持ちを構成しているのだと思う。

 

この一年は途轍もないスピードで進んで行ってしまって、思うようにいかないことが沢山あって、世界は目まぐるしく変わってしまったけれど、そんな中で見つめていた36歳のにのみやくんは、やっぱり変わらないにのみやくんそのもので、もうこの記憶のまま終わらせたいななんて思ってしまうくらいに特別で、誰にも代えられない最高のアイドルだった。

 

 

ついこの間鞄が届いて開いて見たら、もう胸がいっぱいになる程可愛くて泣けた。そして私は私で募るような祈るような手に負えないほど大きくなってしまったこの好きの気持ちを大事にしようとできたんだってことを痛感して泣けた。36歳のにのみやくんが好きだった私がそこにいる気がして、この一年のことが走馬灯のように駆け巡って泣けた。どれだけ世界が変わっても、にのみやくんは変わらないでそこにいてくれることが、それに対して変わらない好きの気持ちを大事にできたことが、ひどく嬉しくて泣けた。「好き」で始まって「好き」で終わる、そんな想いが詰まったものを見て、なんの根拠もないけれど、この気持ちは大丈夫だと思った。

人間だから寂しいとか苦しいとかそんな想いはゼロではなくて、意図してなくてもどこかで浮かんできてしまうし、好きだって有限のものなのはわかっているんだけど、それでも大丈夫だと思ったのだ。

私は常々好きは自分でしか守れないと思っている。その人大切にしているものがどれほど大切かなんて想像はできても全てを知ることができない。誰かに守ってもらうものでも理解してもらうものでもなくて、自分の中にあればいいもの。その人にしか守れないものが好きの気持ちなのだ。そっと心の中に抱いているもの。だから、私は思う存分守っていきたい。36歳のにのみやくんの特別な輝きを。にのみやくんが好きだった気持ちを。ずっとずっと変わることのない、この気持ちを。

 

 

 

早くていつになるだろう。マーガレットの鞄を持って東京に行く。背伸びをして、高層ビルを見上げて、大きく息を吸う。その度に36歳のにのみやくんが大好きで仕方がなかった私を思い出そう。変わることのないその事実を抱きしめよう。この鞄を見て、また少し前を向けますように。未来のことを考えるのはいつだって怖いけれど、"36歳のにのみやくんが好きだった私"がちゃんとここにいたと思えるから大丈夫。

 

 

マーガレットは「真実の愛」「誠実」。だとしたら、私は、私だけが大事にできる「真実の愛」を彼に向けられますように。彼の持つ「誠実」にまっすぐに向き合えますように。「好き」で始まった36歳のにのみやくんを、「好き」で終えて、そしてまた「好き」で始める。この気持ちを、続けていけますように。私自身で守り続けていけますように。

 

「楽しく、楽しく、みんなと一緒に向き合いながら、2020年12月31日のキワのキワまで一緒にいたいと思います。」(5×20 8.31 大阪)

 

さて、37歳のにのみやくんは一瞬一瞬、どんな表情をして、どんな言葉を残して、どんな姿を見せるのだろう。既に楽しみで仕方がない私は、心底幸せ者だと思う。恋とか愛とか憧れとかもはや一筋縄ではいかないごちゃごちゃとした感情で彼を見ているけれど、もうその感情全てを持って、とにかくにのみやくんの味方で居たくて、にのみやくんが思う二宮和也でいてほしくて、ただそれだけで。そんなこんなで、今日も泣きそうになっている。人生にたらればはないからこそ、一先ず、あと数ヶ月。一緒に楽しい思い出が作れますように。一緒にいられますように。そしてまた来年もお祝いできますように。

にのみやくん、おめでとう。そして、いつもありがとう。

 

今日からまた、「好き」を始めて。

 

 

2020/06/17

 

 

 

 

ひとつひとつの痛みを飲み込んで

 

にのみやくんのお誕生日まであと2週間をきった。いつもなら段々と暑くなってきて、雨が降る日が増えて、あ〜もうすぐにのみやくんの誕生日かあなんてふと思い出すんだけど、今年は本人が随分前に「誕生日が近くなってきたぜ!!」なんて言うから笑ってしまった。確かにもうすぐだね。

 

 今年の時の流れはゆっくりだな、とかあればいいんだけど、別に何も変わらないで時間だけは過ぎていく。あ〜今日も何もできなかったなって日があって、勝手に落ち込んだりするけど、それでもただただ平等に時間が過ぎていく。そう思ったら、一人じゃない気がして、何の根拠もないのに、そんな変わらない日常に救われながらも、それでもやっぱりどこか寂しい。たった一度しかない2020年を、大事な2020年を、と思うと、どうしても悔しかった。人生にたらればは無いから、もし〇〇だったら、なんて考えは無駄で、人生は回るし世界は待ってくれないし、私がどうにか出来ることでもない。それは当たり前の話で、だから仕方ないんだよ。仕方ない。仕方ないよね。いや、仕方ないのか?仕方ないってなんだろう、仕方ないことなんて存在しなくて、きっと自分が楽になりたいがための呪いで、仕方ない仕方ないって言いながら平然を装おうとしているんじゃないのだろうか。仕方ないことなんて本当は存在しないんじゃないか。2020年はこうなりました、もっと楽しいことを予想していたのに、仕方ないね、こんなこと誰も予想していなかったし。そうやって自分の中の諦めをいい子いい子しながらやり過ごしていった日々って本当に後から振り返った時に「仕方ない」で割り切れるものなんだろうか。別にこれに答えはいらないけど、シンプルにそうは思えなかった。 

 

 

私は空を見るのが凄く好きだ。辛い時、悲しい時、いつも空を見て深呼吸している。世界がどうなっていても、私がどうなっても、変わらずに流れていく空がきれいで、美しくて、世界はこんなにも広いのだということが救いだった。私が変わっても空は変わらないことが嬉しかった。どれだけ悩んだことがあっても空に比べると小さくて、なんだか大丈夫な気がした。どうしようも無い気持ちを言葉にできない時、全て吸い込んで行ってくれるような気がして救われた。嬉しいことがあったときは、もっと良いことが起きるような気がしたし、心を晴らしてくれるような気がした。そんな全てがとても心地よかった。上手くいかなかった中学の部活の帰り道の夕焼け空、受験直前で大好きなバンドの解散ライブに行けなかった日に見た藍色の空、コンサートの帰り道に見た無数の星空。全てその時々の言葉に表し難い気持ちとともに新鮮に思い出せる。特に自粛期間中は、空をゆっくり眺めるのが唯一の楽しみで、毎朝早起きをしては日の出を待ちながら読書をしていた。時間の流れとともに空の様子は変わっていくのに、常に綺麗で。どれだけ寂しくても、悲しくても、辛くても、側にいてくれるような気がした。

 

ぼーっと空を見る。どんどんと空が流れていく。時間は止まらない。何事もなかったような顔で、進んでいく。綺麗で、大きくて、穏やかで。でも同時に、こんなにも空は綺麗なのに、私は何もできないことが、綺麗でいられないことが、やるせなくなった。私だって何かできたことがあるかもしれないのに、見られた景色があったかも知れないのに、そう思うと遣る瀬なかった。それ以上に、彼らがやることができたはずのことができなくなっていったことが寂しくて、虚しくて、悔しくて。空が綺麗であることに救われていたはずなのに、そんな言語化できない悔しさをただひたすらに抱き続けた。

 

ただ、こんな状況になっても尚、彼らは、彼らだけは、その時間を私たちのために、頑張っている人のためにと発信し続ける事をやめなかった。真っ直ぐであたたかくて優しい。こうありたいなと思わされるような人柄。そして実行力。そんなの今まで見てきて痛いほど知っていて、それなのに、この数ヶ月はそんな彼らの力と誠実さに何度も胸を打たれて仕方がなかった。彼らは感情を言葉に落として、いつだって誠実に想いを教えてくている。でもVoyage#9を通して、そんな彼らがどれだけその行動や言葉に行き着くまでに想いを巡らせていたのか、その背景を知った。もどかしかった。そして、にのみやくんが現状について聞かれた時、あれだけ感情の言語化に長けている彼が、言葉に詰まっていた。そんな姿を見ると、やっぱり「仕方ない」なんて言えなかった。そして同時に、儚くて消えそうな表情が凄く好きで、尚更私はどうしようもなかった。

 

 

とても好きな作家さんが綴った作品のあとがきに、こんな言葉があった。

私達は、言葉の為に、生きているわけではない。意味の為に生きているわけではなくて、どれも私達の為に存在しているものなんだ。*1

言葉はそもそも私達のために、その人のためだけに存在しているものである。だから、言葉が感情に当てはまらなくて良い。その人の、その人だけの言葉があれば。

私は「綺麗だけどなあ、空」がその答えのような気がした。悔しいとか、悲しいとか、楽しいとか、そんな勝手にみんなが持っている感情の型に当てはめなくていいもの。その人のためだけに存在している言葉。

 

 

この言葉を聞いた時、綺麗な空を見て何とも言い難い気持ちを抱いても良いのだと思った。また、彼だけの言葉を感じることができて嬉しかった。誰のものでもない、彼だけの言葉。私は受け取ることが出来たとしても、想いを抱くことができたとしても、永遠に彼のためだけに存在する言葉。彼だけの言葉なのに、私は私の感性で触れていいのだということが、触れてしまえるのだということが、嬉しかった。綺麗な綺麗な空を見て悔しいような、そんな気持ちを抱いてもいいのだと思った。鬱々としても、遣る瀬なくても、彼の目には美しいものが美しく映っていることが分かった。どんな時であったとしても、感性が光っていて眩しい。そこにはやっぱりどこか寂しい瞬間があった。

 

 

こんな世界でも、こんな状況でも、彼の感性を浴びて、彼の表情を見て、彼の声を聞いて、好きだなあという想いを募らせることができている。この前ふとインスタを見ていたら広告でナノックスを持って笑うにのみやくんが現れて、思わず笑みが零れた。なんとなく気分が良くなくて、もう今日は家を出られないなあと思っていたら、テレビからにのみやくんの声が聞こえて、「もうちょっと頑張ってみようかな」と思った。ゼミの発表で思うようにいかなくて、虚無感に襲われていた時に目にしたストーリーのトマトは、丸々とした愛らしさで、可愛かった。全然上手くいかなかった面接の帰り道、じわじわと込み上げてくる涙を堪えながらコンビニに入ったら三ツ矢サイダーと目があって、たったそれだけなのに、ちゃんと私の好きがそこにあるような気がして、見失いそうになっていた私がそこにいるような気がして、思わず涙が零れた。

 火曜日になればストーリーがあがって、木曜日になればゲームを楽しむところが観れる。土曜日は美味しいものを食べながら微笑む姿に思わず笑って、日曜日は緩やかなリズムの中で紡がれる哲学的な言葉に酔いしれる。今は同時に、生徒として先生に会う機会をくれている。決して近くはないのに、近くにいてくれる。ふと更新された紙芝居を見て笑うことができる。日常。変わらないものがそこにある。そして何より今は、彼らにも悔しさが存在していることを共有できている。悔しくてももどかしくても、私は彼だけの言葉を、表情を、知ってしまえる、触れてしまえる。それが当たり前ではないことだと忘れていた。こんなにも救われているのね。知っていたはずなのに、もう慣れたはずなのに、何だか全てが奇跡みたいで愛おしくてたまらなくなった。だからこそ、もっともっと手にできていたかも知れないものがあるということが、より一層悔しかった。

 

 

詰まる所私は断片的な彼らのことしか知らないで、勝手に好きなものを噛み締めて祈るように大切に好きを抱えているだけなのだが、やっぱり仕方なくなんてない。仕方ないなんて呪いを解いて、悔しいとか、悲しいとか、寂しいとか、そんな気持ちも全部全部抱えたい。仕方なくなんてない。空が綺麗なのに上手く動けない、そんな事を考えても大丈夫。ちゃんと悔しいと思っても良いのだという事を、仕方なくなんてないのだという事を、なかったことにしなくてもいい。これだけのものをもらいながら、やっぱり悔しいだなんて、お前は我儘だなんて怒られちゃうかもしれないけれど。結局は、そんな気持ちと共存する今この瞬間、この一瞬を後悔しないように目に焼き付けていくしかきっとないはずだ。

手に入ったはずのものが手に入らないことへの惨めさはなくて、何よりも今まで届けてくれたものはどれも大切で仕方がないし、私の目の前にあるものはきらきらしていて眩しい。日常に溢れるきらきら。これでもかと溢れている幸せと、どんな時にも光る彼の感性。でもだからこそ、まだ終わっていないということが、手に入れられるのかも知れない時間があるということが、空が綺麗であるということが、より一層、私の悔しさを膨らませている。

 

 

*1:最果タヒ「死んでしまう系のぼくらに」

36

 

雨が多くなって 衣替えをして

また夏の訪れを感じる、この時期がやってきた

わたしが一年で一番、特別に感じる日

にのみやくんのお誕生日を迎えるのは何度目かななんて、一方的なことを考えながら。

35歳のお祝いをしたときからこの一年で、色々なことがありました。本当にいろいろなことが。きっと去年の自分に言っても信じてもらえないんじゃないかな?ってくらいに、色々なことが。

 

 

……でもさ〜〜〜!!この一年、35歳のにのみやくん、

本当に最高だったよね!!!!!!!!(毎年恒例)

は〜だいすきだったな〜35のにのみやくん、思えば34のにのみやくんもだいすきだったし、でも35のにのみやくんはほんとうにだいすきで、星の数ほどいるアイドルの中でにのみやくんをすきでいられてほんとうにしあわせだなってさ〜〜〜(重)

 

 

私の目に映るときはいつだってとびっきりにかわいくて、大切な人を想うときは誰よりも強い眼差しで、たまには誰も傷つけない可愛いウソを持ち前の柔らかさに包んで溢したり、自身の言葉で伝えてくれる重さと優しさをぎゅうぎゅうに詰めた愛から大切なものを教えてくれたりした35歳のにのみやくん。

思えば、きゅるんとした笑顔を届けるチアガールにもなってたし、メンバーに“お得意の”盗撮をしたり、 ハンバーグの会ができたり、ちっちゃくて渋いおじさんいないだろうからジョージ・クルーニーの顔になりたかったり、グラタンの略を「ぐらんどたんたん」だと思ってたり、わたしも大好きな日食なつこさんににのみやくんがハマっていると知って叫んだ日があったり、カレーと言ったら「ハンバーグカレー」と答えるげきかわハンバーグカレー事件が起きたり、クイズ松本潤ではしゃいだり、「平成のギリギリ最後の最後に滑り込めた。」と映画に向き合うだいすきで頼もしい顔を見せてくれたり、メロンパンに「好き以外の何物でもない」と言いながら“嵐”と刻んだり、目に星をためてきらきらさせながら4人をぎゅうぎゅうにくっつけたり…あ〜〜かわいいな〜〜最高だな〜〜(じたばた)

挙げだしたらキリがないくらいに、本当に本当に35歳のにのみやくんに数え切れないほどの幸せを貰っていた。

 

そんな毎日の幸せと同時に、自分の中で様々な感情と向き合って、何度も大事な気持ちを見つめ直すことができた一年でもあったと思う。

好きだと思い続けたら、愛を届け続けたら、それが届かなくても動かなくても自分の中での対アイドルへのファンという感情の有限は保たれるということに改めて気づかされた。どんなことも難しく難しく考えてしまって、自分の中で好きな人への好きのベクトルが下手に曲がらないようにしたいと思えた。にのみやくんのことが好きだから、5人が好きだから、わたしはどんなときにも彼らのひとつひとつの決断の強さに対して、全てを分かったようなことを言ってはいけないなと思ったときもあった。どれほどの時間がかかってもアイドル自身の内面を推し量ることはできないから、大切に届けてくれるものを全力で見つめていたいと思った。1つの終着点が見えてから初めて気づくような思い出や感情なんて欲しくないと思っているけれど、5人にあまりに救われていることに気づいた。

私は、嵐に、彼に出会えて人生がとても輝いているということは何があっても変わらないから、語彙力に乏しくて月並みな言葉を並べることしかできないが、大好きだというその気持ちを、自分が自分のためにずっと大事にしたいと思った。

 

 

自分対好きなアイドルの中に取り巻く感情は人それぞれでどれも間違っていないからこそ、わたしはわたしの受け取った考えや想いや愛を自分が幸せになるために大事に持っておきたい。可哀想でも過酷でもない わたしが好きな人を見て、元気で、幸せでいられる人生を。あなたに会ってわたしの人生は、楽しく、美しく、輝けるものになりましたと自信を持って言えるからこそ、アイドルから受け取った輝きや気持ちを、ずっとずっと大切にしていたいと今、思っている。

 

 

 

 

 

 

 

にのみやくん。わたしはあなたが走り続けたアイドルとしての時間の中に、たくさん、たっくさんいたファンの、その中のたった1人のファンでいられて、今とってもとっても幸せです。にのみやくんことをずっと第一前線で見ているわけでも何でも知っているというわけでもないし、いつかあなたが見つけてくれるだなんて、そんなことを思っているわけではないし見つけてほしいという気持ちになんてなったことはないけれど、にのみやくんが大好きな嵐という人生の中で見る景色の、その中の一つの光として、少しだけ、あなたを照らせたらいいなと、微力ながらでもひとりのファンとして思う。思わず心が明るくなり、幸福を感じさせるようなその黄色はにのみやくんの色。その色を照らしながら。ありがとうの文字を振りながら。

 

これまでステージに立ち続けることを選んでくれて、続けてくれて、ありがとう。ここにいてくれてありがとう。

36歳で見る景色や感じるものがどんなものなのか、たった20年しか生きていないわたしには想像することもできないけれど、またどこかでにのみやくんが伝えたいと思った言葉を受け取ることができたらいいな、うれしいな。きっと教えてくれることは全部、彼が感じてきた正解だと思うから。

 

 

35歳の一年も、もちろん今までも、わたしの目の中にあったにのみやくんは、一瞬足りとも霞むことなく、全部全部とびきりの格好良さと可愛さで輝いていたと、そう心の底から思う。今日もアイドルでいてくれたから、わたしはファンでいられたよ、なんて当たり前のことだけど、いつもにのみやくんを見ると感じてしまう。アイドルでいてくれてありがとう。私が持っていた、アイドルに対して“好きだ”と思うことへの壁を、壊してくれてありがとう。私の見る世界に、彩りを与えてくれて、ありがとう。いつだってアイドルに誇りを持ってくれてありがとう。どんなときも、心があたたかくなるような好きや、世界に煌めきが溢れるような好きをくれて、ありがとう。

 

 

ああ もう心の奥底から溢れる言葉がありがとう以外に見つからないから、この辺にしておこう。

 

 

 

「歌を聴きたいと思ってくれて、ありがとう。

歌わせてくれて、ありがとう。

テレビに出たいと思ってくれてありがとう。

テレビに出させてくれてありがとう。

 

僕らとみんなっていうのは、そういう関係なんだよね。」

そういう関係。そう伝えてくれたあのときから、わたしはアイドルとの関係は"ありがとう"を共有できる関係だと思っている。素敵だ。もしかしたらアイドルを好きでいる事自体自分のために過ぎないのかもしれないと思うこともあるけれど、そんな感情を吹き飛ばすほどの「ありがとう」を彼らはくれる。だからこそ、これからもとめどなく溢れるありがとうを一つ残らず伝えていきたいな、なんていつも思っている。それじゃあ足りないかもしれないけど、改めて、とびきりの幸せを心に宿してくれて、本当に本当にありがとう。

 

 

 

 

それから。

にのみやくんが代表して遠くまで足を運んで届けに来てくれた、嵐のことが好きな人達の愛で、5人のやさしさで、わたしの大切な人たちは住む場所を取り戻すことができました。1年経ってやっと今までのような生活が送れるようになりました。本当に、本当に感謝しています。ありがとう。

 

 

 

 

 

 

私のなかのとびきりのアイドル、二宮和也さん。

36歳の一年も、勝手に、一方的に大好きだよって言わせてほしい。

にのみやくんにとって、好きな人たちと一緒にいる時間があったり、やりたい仕事ができたり、ゲームが納得できるまでできたり、そんなゲームする時間を惜しんで寝るときにはお布団があったかかったり、出会う人がみんな素敵な人であったり、食べたいものが食べれたり、それが全部美味しかったり、ふと外を見たときの景色が美しいものであったり、そういう一年で、毎日でありますようにと祈りを込めて。

 

 

 

 

 

 

36歳のにのみやくんに、やわらかな愛を。

お誕生日おめでとう!